AI時代だからこそ哲学

むつかしいのとわかりやすいの

バークリー

想像上のバークリー

イギリスの哲学者ジョージ・バークリー(1685-1753)は、自身の観念論を通じて科学と宗教を繋ぐ試みを行い、哲学史におけるその貢献は経験論の伝統の一部として広く認識されている。バークリーの哲学は、前世代の哲学者ロックとヒュームの認識論を一部継承しつつ、彼らの一部の主張に対する明確な否定の形を取る。

 

具体的には、ロックが主張した「物質が観念を生む」という認識論に対して、バークリーは観念が物質に基づいていないと主張した。この観念論は、我々が認識する物体が観念であり、それらが物質から独立して存在するという認識を打ち立てた。一方、ヒュームの認識論は経験に基づく知識の形成について語った。これを受け継いだバークリーは、自らの「存在とは知覚されること」の理論を形成した。

 

彼の独自の観念論は、物質主義の存在に疑問を呈する形で、経験論と物質主義の間の新たな視点を提供した。結果として、バークリーの哲学は、彼がロックとヒュームの認識論から引き継いだ思想と、彼が明確に否定した物質主義の存在に対する独自の反論から成り立っている。

 

目次

 

バークリーの主張

 

ジョージ・バークリーは観念論の立場から哲学を展開し、物質とは何か、また我々はどのように物体を認識するのかという問いを深く探求した。彼は我々が認識する全ての物体は観念であると主張し、物質という存在を否定した。これは、物質が観念を生み出すという前世代の哲学者、ロックの主張に対する明確な反論である。彼は存在するのは観念のみで、物質とは我々の観念の集合であると認識論的に立論した。

 

この主張は「エッセイ・コンサーニング・ヒューマン・アンダースタンディング」の中で展開され、物質が観念に基づいていないと主張する。観念は知覚に由来するものであり、それは認識主体にとって唯一確実な存在である。バークリーはこれを"Esse est percipi (To be is to be perceived)"、つまり「存在とは知覚されること」であり、観念は知覚されることによって初めて存在すると述べた。

 

また、バークリーの観念論は、知識の起源と範囲、特に感覚的知識について深く探求したヒュームの認識論を一部引き継ぎつつも、その一部を否定する形を取った。これら全体から見て、バークリーの哲学は物質の存在を否定し、観念の存在を強調する独自の視点を提供している。

 

バークリーの言葉

 

「存在するとは、知覚されるということである」
この言葉は、哲学史において観念論の重要な概念であり、物質と観念の関係について深く考える機会を与える。この言葉は、観念は知覚されることによって初めて存在するという観念論の核心的な命題を表している。

 

バークリーにとって、存在とは物質的な実体に依存するものではなく、主観的な知覚によって確認される観念そのものである。彼は存在を知覚する行為に還元し、物質の存在を否定した。すなわち、物体が知覚されない状況では、その物体は存在しないという極端な立場を取った。

 

これは、認識論において物質主義の前提を根底から揺るがす主張であり、彼の観念論の独自性と革新性を示している。この観点から、バークリーの観念論は、経験論と物質主義の間に存在する認識論のギャップを埋める役割を果たし、主観と客観の認識を結びつける可能性を提示している。

 

 

「天空も、地上にある諸々のものも、世界の力強い機構を支えるどんなものも、精神がなければ存在しない。」
この言葉は言葉は、彼の観念論を完全に象徴している。この名言は、観念が物質に先立つという彼の主張を強調し、物質が独立して存在するという考え方に対する明確な反論となっている。

 

バークリーは、物体が存在するためにはそれを認識する主体、すなわち精神が必要であると主張した。物質は独立して存在するものではなく、観念、つまり主観的な知覚によって初めて存在すると見なされる。すなわち、知覚されない物体は存在しないと彼は主張した。

 

この主張は、世界を認識するためには物質的な対象だけではなく、それを認識し理解する精神的な活動が不可欠であるという哲学的視点を示している。バークリーの観念論は、知覚する主体の重要性を強調し、物質主義的な哲学とは異なる視点から認識論を捉えようとした。

 

著書

 

『人間知識の原理』
『人間知識の原理』は、彼の観念論と知識論を詳細に展開した作品である。この著作は、存在と知識の関係性を探求し、物質の存在を否定する哲学的立場を取る。

 

『人間知識の原理』の主要なテーゼは、「存在するとは知覚されるということである(Esse est percipi)」であり、これは観念論の核心的な命題である。バークリーは、物体が存在するためにはそれを認識する主体、すなわち精神が必要であると主張する。この主張は、物質が観念に先立つという彼の観念論を強調し、物質が独立して存在するという考え方に対する明確な反論となっている。

 

また、バークリーは、観念と物質の間の区別を否定し、観念自体が実体であると主張する。これにより彼は、我々が認識することができるのは観念のみであり、それらは物質に依存することなく独立して存在すると論じている。さらに、この著作では、彼の観念論が神学とどのように結びついているかも明らかになっている。神が究極的な認識主体であり、全ての観念を保持していると彼は説明する。このように、バークリーの『人間知識の原理』は、彼の観念論と知識論、そして彼の神学的な観念についての深遠な洞察を提供している。

 

 

 

『人間視覚の論理』
『人間視覚の論理』は、物質の存在を否定し、観念論を強調する彼の哲学の一環として、視覚と認識の過程について独自の洞察を展開した作品である。バークリーは視覚による認識において、視覚体験そのものが現象であると主張し、視覚によって得られる知識が物質的な対象を直接捉えるものではないと論じている。

 

バークリーは視覚体験が二次的品質(色、音、味など)を提供し、これらは物質的な対象に固有のものではなく、認識主体の観念として存在すると主張した。すなわち、私たちが知覚する「色」や「形」は物体そのものではなく、物体に関する私たちの観念である。これは、物質が観念に基づいているという彼の基本的な哲学的立場を示している。

 

さらに、彼は距離や深度といった空間的な属性もまた観念的なものであると主張し、これらは他の感覚(触覚など)と視覚の連携によって獲得されると説明している。これにより彼は、私たちが物体をどのように知覚し、認識するかについて深い洞察を提供し、認識論と観念論の領域で重要な寄与を果たしている。この著作を通じて、バークリーは物質的な世界と主観的な観念の間の関係性を明らかにし、我々の視覚体験と認識過程について新たな視点を提供している。

 

バークリーの哲学史における存在

 

ジョージ・バークリーの哲学史における存在意義は、彼の観念論と知識論の中に見出すことができる。彼の観念論は、「存在するとは知覚されるということである(Esse est percipi)」という主張によって特徴づけられ、物質と観念の関係について全く新たな視点を提供している。ロックやヒュームの経験論を発展させつつ、物質的実体の存在を否定するという彼の立場は、認識論と形而上学の議論において革新的なアプローチを示した。

 

また、バークリーの哲学は、神が全ての観念を保持するという神学的な視点とも密接に結びついており、これにより彼の観念論は宗教的な背景との関連性を明確に示している。このように、バークリーの哲学は物質主義と観念論、神学と認識論の間の交差点に位置しており、その独自性と影響力は哲学史において非常に重要であると言える。

 

バークリーの興味深いエピソード

 

新世界であるアメリカに神学校を設立しようと試みたジョージ・バークリー。しかし、その構想は資金の難航により未遂に終わる。彼の教養と信仰の深さは無視されることなく、彼はアイルランド国教会の主教に任命され、その地位を60代半ばまで堅持した。

 

人々から離れたオックスフォードでの晩年は、静寂な隠遁生活となった。彼の人生は67歳の時に静かに幕を閉じた。その瞬間は興味深いエピソードとして語られている。バークリーが息を引き取ったその時、彼の妻は彼に向かって聖書の物語を読み上げていたという。

 

このエピソードの真偽ははっきりしていないが、それはバークリーの信仰の深さと、彼が一生を通じて哲学者でありながらも聖職者であったことを示している。彼の業績は、その学識だけではなく、その深い信仰心と人間性を強く象徴している。


まとめ

 

ジョージ・バークリーの哲学的業績と人間性を統合すると、その寄与は観念論と知識論、そして神学の交差点で特に目立つ。彼がロックとヒュームの経験論を基に、物質の存在を否定する観念論を展開し、その中で「存在するとは知覚されるということである」などの重要な思考を提示した。彼の主張は、現象とその背後にある本質、観念と物質的存在の関係性について新たな視点を提供し、哲学的議論を広げた。

 

また、彼の信仰心と哲学への情熱は、学術界での地位に影響を及ぼし、アイルランド国教会の主教に任命されるまでに至った。そして、彼の晩年と最期について語られるエピソードは、彼の人間性と深い信仰心を強く描き出している。新世界での神学校設立という未遂の夢、そして敬虔さと知識への探求心が結実した隠遁生活。これらは彼の人生と哲学を象徴するエピソードである。これらのエピソードは彼の哲学的業績と共に、バークリーの生涯を形作ったと言える。